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2011年 05月 08日
twitterができてからブログはほとんど書いていない。
沢山のまとまった情報をどこかにつぶやくことはしないようになった。 たぶん、つぶやく理由はさびしいからかもしれない。 facebookやmixiで繋がっているのも似ている。 写真を公開したり、作ったものを公開するのも。 つぶやくのも何かの形を残したい衝動の一つかもしれない。 非常に多くのつぶやきがあるので、すぐに埋もれていく。 埋もれていく情報ぐらいがちょうど良かったりする。 もしかするとどこかに情報が残っていて はずかしい思いをするかも知れないけれど ほとんど問題にならないくらいの情報になっている。 意味のある情報はほとんどなくて、ランダムに組み合わされた自動生成のように よくある話に似ている。 ある程度の素材が集まった状態で、リミックスされると 自然とそれらしく振舞う。 言葉も素材なので、好きな言葉、食べ物、色、形、もの、写真など、これらを組み合わせて、発信することができる。 誰かが「いいね」と反応したり、RTしたりするかもしれない。 これらは、非常に個人的な形になる。社会全体に訴えかけるような規模のものではなく、 個人的な満足のために行われていることがほとんど。 「それで良いのか?」「どこへ向かっているのか?」 何かしらの技術を持って、時間をかけて何かを作っているのに それはその大きさのもので良いのか? もしかすると、大きく世界に影響を与えることになるかもしれないこともある。 それは本当にまれなことで、偶然に近い。 好きなことをいくつもあげていく。ただそれだけをひたすら繰り返すことで、 結果として何かが生まれる可能性はあるかもしれない。 目的を持って何かを作るのであれば、その目的についてよく考えることが必要かもしれない。 ただ、たいていは直感で、そのときの興味のあるものを並べることになる。 時代があって、繰り返したり、有名なパターンを模倣したりすることも、そのときの興味や 価値があるかと思うことによって繰り返すことになる。 同じ営みの中で生まれるものはたいてい似てくる。 新しい技術などがあればそれに応じて若干の変化もでてくる。 開発環境はとてもいろいろな新しいものを持ち込む。 何かしらの設計思想を持った良いツールができていれば、 そのツールを使うことで、その設計思想のものを作ることが楽にできるかもしれない。 それらが多くの作品で使われるとするならば、それはパターンになりうる。 同種のパターンがいくつも存在すると、比較したり、 個人的な好みや特徴わけをすることができるようになる。 あるルールを決めて、その中でゲームするのに似てくる。 そこには好きなものをフォローし、評価したりコメントしたりすることができる。 多くの人に好かれるものを用意できるとすれば、評価が高いという考え方もある。 それは影響が大きいので、価値が高くなり、その価値のことを優先して行いやすくなる。 もしかすると生きていくための仕事となりうるかもしれない。 新たな発明ならば特許をとっておけばよい。 プログラムなどではよく起こりうる。 価値を決めるのは自分だけでなく、多くの人が判断する。 ただ、多くの人に判断してもらうには、敷居が低い方がより多くの人に接する機会が増える。 敷居を低くするには、 機会を多くしたり、よくあるパターンや、多くの人が接しているシステムにあわせたものが良い。 あまりとっぴな形だと、受け入れにくい。 ある程度のまとまった、バランスの良いもので、それでいて他と違う何かが含まれていて、 そこに価値があるようなものが良い。 形はパターンがあり、たとえばブログやtwitter、facebookでも良い。それらはプラットフォームとよばれたりするかもしれない。 多くの人が教授可能な状況であれば、同じことであっても、より多くの人にアプローチする機会が増えるので、そこで発表することに価値がある。 また、コミュニティがあれば、そのコミュニティの趣旨にあった事をすることで、評価が得られる。 コミュニティはいくつも存在することができ、 ネットワークがあれば簡単に見つけることもできる。 一つの基準があるような、たとえばテレビや映画、本や楽譜などのフォーマットは、その時代の宣伝にもつながり、ビジネスになりやすい。 アプリケーションも広くアプローチできるフォーマットが優位になるので、windowsとMacとどちらで作るべきかといった話題で、よく考えることがある。 どちらでも動くのが理想の一つだが、それはまた「どちらでもないデザイン」を選択したことにもなるので注意が必要だったりする。 どちらでもないデザインはもっとも多くの人が扱うものでは無かったりする。 その点ではウェブ上のコンテンツやスマートフォン上のコンテンツは共通感がある。 次はスペックの標準的レベルの見定めと、その処理能力にあったデザインが必要になる。 多くのリソースやパフォーマンスを必要としてしまうデザインだと、対象となる層が限られてしまう。 逆にものすごく敷居を下げてしまうと、実はよくあるパターンに落ち着いてしまいあまり価値が無いかもしれない。 twitterやfacebookなどは敷居が低いシステムなので、多くの人が接することができる。 言葉の壁はあるけれど、それもどこまでの公開にするべきかの判断で、基本的には世界中に言葉が届く。 より注目のある人の発言であれば効果が高い。 フォローワーの多い人ほど影響力があり、逆にフォローされやすい発言以外はしない方が良くなってくる。 ブログに書くようなことは、つぶやかなくてもいいのだ。 それにあう場所を選んでつぶやけばいい。 コミュニティができるにもその下地が必要で、 twitterはそのコミュニティの存在が希薄になっている。 タグをつけたりすればある程度発言をまとめられるかもしれないけれど、 それも一般的かはわからない。 そもそもごく一部の人が何らかの利益があると信じて利用しているに過ぎないものだったりする。 ただ、なんとなく無意味な情報の中に、ある特定のコミュニティやフィルターを通して見ることで、 新しい発見があったり、その情報に出会える機会が増える可能性は高くなる。 とりあえずつぶやく、発表しておけば、しかるべきアンテナを持った影響力のある人にアプローチすることになる可能性が高いメディアになっている。 ということで、ブログでつぶやくよりも最新情報は twitterでつぶやくのが理想的かもしれない。 まとめとか、長文はブログでもいいかもしれない。 検索エンジンなどでひっかかる事もあるかもしれないので。 そして個人的にはそのときの好きなことや興味のあることを発信することくらいがよくあるパターンに染まっているので、よくある楽曲のパターンを生成したり、文章を生成したりすることになる。 演奏パターンもよくあるものに落ち着く。 超絶技巧にならなくてもよかったりする。心地よさと新鮮さは求めている層が違うのであまり問題にならない。 ただ、やっぱり注目を集める題材を扱う方が多くの人の目に入るかもしれない。 多くの人に見てもらうためだけに、twitterと連携するのも便利だけど、 そういう存在だというアピールや道具として使っているアカウントで無い限りは そこまでして見てもらいたい情報はそうは無いかもしれない。 なので、情報の海にそっと埋もれてしまうようなつぶやきでいいのかもしれない。 埋もれて誰にも見つからない情報なら影響量も少ないので、そこに時間をかけて作る意味はあるのか問う必要はあるかもしれない。 その問うことと、 システムの設計思想があっているのであれば、それで楽に表現できているからいいのかもしれない。 価値のあるものばかりを量産する設計なものはそうそう無い。でも、それを使うことでそこに大きく近づくことはできる。 そのパターンに染まることで、多くの人に影響を与える可能性があったりするから。 あとは、何があって、何が使えるかは人によって違うし、どこでどう活動したいかも人によって違うから、 孤独な趣味嗜好をもった人であれば、twitterのようなものであったり、 タグをつけて表現するのはあっている気がする。 多くの情報がある中で、そのインデックスや検索手段になるかもしれないから。 日記のように 個人的に分かるものでよければ タイトルは無くても日付や、自分の好きな食べ物やさんのお店の名前でもよかったりするのかも 知れないけど、 タイトルはそのタグやそのものをあらわす記号になりうるかもしれない。 一般的に良いタイトル付けがなければ、大量の情報に埋もれるだけになるだろうし、 それに価値があるかどうかは微妙になってくる。 コミュニティや何らかのイベントに参加することで価値はあるかもしれないけれど、 そうでもなければただの個人的なつぶやきにしかないし、 それはよくあることで、個人的に影響をもっているレベルのことでよかったりする。
by charytanaka
| 2011-05-08 07:48
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